億岐家と駅鈴
【守り・託されて来た古代の音色】
日本で唯一現存する駅鈴 駅鈴が用いられたのは、今からおよそ千三百年前の奈良時代頃。 現存する駅鈴は隠岐・玉若酢命神社にある二個だけだと言われている。 駅鈴は全国の「駅」に送られるとともに、当時の役人が公用で中央に 行く際に帯同し、身分証明の道具でもあった。役人は駅から駅へ移動 する際に、馬上から駅鈴を鳴らして身分を知らせ、人と馬を調達して 旅をしていた。 日本は古くから駅の制度が発達しており、五里(二十km)ごとに駅を 設けていた。当時の駅は役人の為に交通の便を図っていたが、 駅鈴の使い方は非常に厳しく管理されていた。 駅鈴を使用する一番の目的として考えられるのは、国に一大事が 起こった際にそれを一刻も早く中央に知らせること。 また、税を中央に運ぶ際に使用したことなどが考えられる。 その他、中央から、貴族の下向の際使用したものと思われる。 |
|
「駅鈴到着絵図」到着した国司が駅鈴を手にかざし持ち、 駅の長らが迎えている状況の図。 |
億岐家47代当主・玉若酢命神社億岐正彦氏 |
億岐家そして、受けついできた想い・・・ 億岐幸生(おきさちなり)<億岐家四十代当主・1786年、光格天皇時代> 玉若酢命神社に隣接する億岐家は隠岐国造の家系で、 はるか昔、応神天皇の頃任命されたのに始まるという。 隠岐国駅鈴は古くから厳重に壷の中に入れられて、 億岐で守り託されていたと思われる。 現当主の正彦氏にお話をお聞きしました。 「先祖代々億岐家では、この壷は先祖が預かった物だから 絶対に開けてはいけないと言い伝えられていたために、 開ける事はもちろん、中にある駅鈴の存在は誰一人として 知りませんでした。そして江戸時代、四十代当主の億岐幸生は 国学者として勉学に励んでいました。幸生は、駅鈴の存在を 知るも何かは分からずにいました。 |
|
1785年に都にのぼった時、幸生は駅鈴を帯同していました。 これが、御所(光格天皇)の耳に入り、遂には光格天皇の天覧 にまで供し奉ったのです。 1792年、御所の儀式の際には、隠岐国駅鈴を貸してもらいたいとの 依頼状をいただき、幸生は駅鈴を帯同して儀式に参列した・・・ と伝わっています。以来、隠岐国駅鈴の存在が 世に広まっていったのです。」 |
|
隠岐国駅鈴、存在の理由 「昔、中央の役人は新政によって隠岐の国司・郡司に任命されても 流人の島であることや、また隠岐に渡るまでの海浪荒い舟航に おそれをなし、受領はしても隠岐に赴任しないこともあったと思います。 そこで、隠岐国造は、総社玉若酢命神社祭官としてのみでなく、 国司の職務も執ったとも考えられます。そのため新政によって下附された 駅鈴を、国造家が国府の代官として保管したのではないか、 と思います。中央から遠く離れている隠岐、流人の島だった隠岐、 これらの事も、駅鈴が隠岐のみに残っている要因かもしれません。」 |
|
未来に託す・駅鈴の音色 駅鈴は、昭和十年に国宝・重要文化財に指定されている。 「先祖代々受け継がれて守られてきた想い、そして駅鈴を、 この先も守り続けていきたいと思います。」 (平成17年7月・億岐家、第四十七代当主・億岐正彦氏にお聞きしました。) 参考文献: 「隠岐国 駅鈴、 倉印の由来」 億岐豊伸著 |
都の歌人(貴族)が、駅鈴の音色に心うたれ・・・ 当隠岐国駅鈴を詠んだ古歌 隠岐の国年径る家は伝え来し むまやの鈴の音にても知る 前大納言 資枝 雲の上に上るむまやの鈴の箱 ふたたひ開く世々の古道 成斎 持ちかへるむまやの鈴のいさましく 故里人にあふやうれしき 西依周行 |
駅と駅とをつなぐ駅伝・・・ そして駅伝競走は始まった 駅鈴そして襷(たすき)へと ★駅伝競走の始まりー 「駅伝競走」は日本で生まれ、すでに九十年の歴史をもつ 陸上競技である。 「駅伝」という名前は、駅から駅を移動する際に、駅鈴を 人・馬調達の為に鳴らした「駅伝制」にちなんで命名された。 現在繋いでいるのは襷である。 日本最初の駅伝は1917年(大正六年)に行われた「東海道駅伝徒歩競走」 だと言われている。その三年後の1920年、マラソンの父、金栗四三(かなぐりしぞう)によって東京〜箱根間、現在日本で最も歴史のある、 箱根駅伝が誕生した。そして現在、実業団駅伝、都道府県駅伝、 高校駅伝、地方の駅伝と実に多くの駅伝が開催されている。 |
隠岐の走る事が好きな仲間・駅鈴クラブ。 平成17年4月の宍道湖一周駅伝・ 隠岐郡連続30年とたすきを繋いでいます! |