修験道の概況(中国地方そして隠岐・・)
〜古代・中世・近世のこの地方でのおおまかな概況を知る上で役立ちます!!〜

山岳宗教史研究書 K
大山・石鎚と西国修験道  宮家準 編  名著出版から抜粋させていただきました。

 中国・四国地方の霊山をその歴史的な展開を考えて整理してみるとまず、
古代の山岳信仰を示すと思われるカンナビクマノ中山の信仰が認められる。
 
やがて古代末から中世にかけて、古来の霊山に修験者などによって、
熊野金峯などの権現が勧請されたり、行場が作られるようになって行った。
 
その後近世期になると、本山派当山派の修験者が自己の居処の近くの山岳を行場にして修行し、信者を作っていった。

 一 古代の山岳信仰
 大和の三輪山に代表されるように里近くの美しい山岳を神の宿る山として崇め、これを「カムナビ」と呼ぶことは広く知られている。古典から見ると、
カムナビ
は、「延喜式」「出雲風土記」「万葉集」などに、「神奈備」「甘南備」「神名樋」「賀武奈備」「賀茂那備」
「神南」「神辺」等の記載で登場する。ちなみにこれらの古典にあげられている
「カムナビ」の国ごとの分布を見ると、山城一、
大和三、丹波一、出雲四、石見一、
隠岐一、備後一、肥前一となっており、出雲から大和にかけて多くなっている。
 中国地方の古代の山岳信仰を考える上で無視しえないものに吉備の
中山がある。山岳としての「中山」の信仰は、
国境の山岳に御霊をまつることによって国土の守護を祈ったと考えられるのである。
 池田弥三郎氏によると、
中山の「中」は、信仰的な意味での中心で、その意味は天上と地上を結ぶ場所で、そこに神が来臨するとされている。
この解釈をさらにおしすすめると、宇宙軸としての宇宙のとらえ方に結びつけることが出来る。
中山は天地を結ぶ軸、万物がそこから生まれ、死後もそこに帰る軸であるとの解釈が可能になるのである。宇宙山は黄金の山ともいわれている。 
 宇宙山の信仰の最も代表的なものは印度の須弥山であるが、この信仰が我国にもたらされたのが、妙高あるいは弥山の信仰である。とすると、
出雲の鰐淵寺の弥山、厳島の弥山、大山の弥山、石鎚の弥山など中国・四国地方における弥山の信仰は、上記の中山に関する信仰が、
仏教の須弥山信仰と習合した結果生み出されたものと考えることが出来るのである。
 中国・四国地方の古代の山岳信仰をまとめてみると、まず神が居する
カムナビの山、特にその神々しさから
クマノと呼ばれた山あるいは丘が推定される。そしてこうした山が国の宗教的な中心として設定された時には
中山
仏教的色彩の強い宗教圏の中心とされた時には弥山と呼ばれたと考えることが出来る。
中山あるいは弥山は里人に水を授けてくれる霊地、穀霊の鎮まるところ、祖先の居所さらに御霊神の鎮まる所としておそれられていた。
こうした古代の山岳信仰を基盤にして、
中国・四国地方の霊山は展開し、
熊野金峯など外来の山岳信仰と習合し、さらに修験者によって支えられていったと推定する事が出来るのである。

 ニ 熊野 ・ 金峯山信仰の伝播
 中世期に入ると紀州の熊野吉野の金峯山の信仰がもたらされ、諸霊山の性格も少しずつ変っていくようになる。
熊野信仰の地方伝播は、熊野三山の庄園造営領などへの熊野権現の勧請にはじまると考えることが出来る。
中国・四国地方における
熊野三山の庄園の初出は仁平元年(1151年)に源義国が源氏一門の武運長久を祈って、
自己の領地でもある美作国久米郡の稲岡南庄を
熊野本宮に寄付したとの本宮文書である。
義国はあわせてこの折、丹誠に祈祷するよう依頼した。また、この稲岡の地に
熊野権現を勧請した。
このように領主たちが自己の信仰にもとづいて庄園や造営領などを寄進し、そこに
熊野権現を勧請したり、熊野参詣をすることは、
中世期に入るにつれて増して行った。・・
また南朝と北朝がお互いに競うかのように
熊野に庄園を寄進していることが注目される。
 
熊野信仰が浸透するにつれて、各地の人々は先達に導かれて熊野に参詣するようになっていった。
熊野には宿坊と祈祷のとりつぎ機能をはたす御師がおり、修験者が勤めた先達と、檀那と呼ばれる参詣者はいずれも所定の御師に所属した。
御師の側からすれば、定期的に参詣し、布施を納める檀那は貴重な財産ともいえるもので、檀那を導く先達も必要な存在であった。
 時代がさがるが、元和年間(1615〜1624)の
熊野那智御師の「檀那書立」によると、御師では実報院が、備中・美作・隠岐・阿波・
讃岐・伊予となっている。
また松井美幸氏の調査によると
隠岐の熊野社数は3となっている。出雲35、土佐73と熊野社数が多いのも注目される。
出雲は
熊野信仰の発生の地であり、土佐は海上交通の関係から熊野権現が多くなっている。ちなみに、
これら各地への
熊野権現の勧請年代は大体において14世紀、15世紀、17世紀が多く、古いものは9世紀、
新しいものは18,19世紀となっている。
 熊野先達は自己の居所の近くで修行することが多かったことから、各地の霊山には熊野権現が勧請され、
熊野修験
の影響が次第に強くなっていった。

 
吉野の金峯山の金剛蔵王権現信仰も修験者によってもたらされている。山陰では仁安三年(1168)の銘がある金剛蔵王権現像を持つ三徳山、
同じく
金剛蔵王権現をまつる出雲大社旧別当の鰐淵寺、松江の枕木山の蔵王権現などが有名である。この他出雲地方の寺院には蔵王権現像が数多く伝えられているが、これらの寺院の多くは鰐淵寺末であり、鰐淵寺を中心として中世期にこの地に修験道が盛行したことが推測される。
 こうした
金峯山の信仰の伝播にともなって、この地方を代表する霊山・大山も中央の修験道との関係で位置づけられるようになってくる。
 さらに室町時代末期になり、
役小角を開祖に仮託した本山派が全国の諸山を自己の影響下におさめるようになっていくと、役小角の全国の主要な霊山への巡○をとく伝記が作られるようになる。その代表的なものが「役行者本記」である。このことは、山陰の霊山、伯耆大山・三徳山・杵築社・
石見八上山・出雲手間の山などが、中央の修験の影響を受けるようになっていったことを示している。

 三 本山派 ・ 当山派の浸透
  近世期に入ると、諸国の修験道は徳川家康の修験道法度により、聖護院を本山とする本山派か
醍醐の三宝院を本寺とする当山派のいずれかに所属して宗教活動を行った。
  今、各国ごとの
本山派当山派の修験者の人数・霞所持院・役職修験者名をあげると・・五流修験の勢力が及ばなかった、
石見・
隠岐・周防・土佐・宇和では全国各地に本山派で最大の霞を持った京都の院室、住心院が進出した
(隠岐→本山派・・人数35人、年号天保18年、霞所持・住心院、出展・近代先達次第となっている。)
ここで注目されるのは、隠岐に35人と他地域に比して多くの修験者がいることで、
これは因島・大島など島に修験者が多いという事実に符合している。


 四 現代の山岳信仰
  近世末期以来衰退の道をたどっていた修験集団は、明治政府の神仏分離・修験道廃止の政策により壊滅状態になる。
大山は、大神山神社と旧天台寺院の大山寺の二本立となった。・・・
  しかしながら、近世期を通してこれらの諸山に依拠した修験者によって伝播され、地域社会に定着した山岳信仰は民間の講として存続した。
そして現代の山岳信仰へは、様々な形態をとって新しい展開を見せているのである。

なお、隠岐の霊山として、西ノ島町の焼火山があげられていました。 焼火山につきましては、まだ行ったことがありませんので、
いつか訪れてみたいと思います。

著出版 刊 宮家 準氏 編  大山・石鎚と西国修験道、総説から抜粋させていただきました。