聖護院(京都市左京区)

本山修験宗総本山

 智○大円珍の衣鉢を継ぐ増誉が、寛治四年(1090年)に白河上皇の熊野三山参詣の先達をつとめ、その功績により、
聖体護持の二字をとって聖護院という寺をたまわった。これが聖護院の開創になる。
 このとき、増誉は熊野三山検校職に任命され、天台系修験者を統括する本山派修験の管領となった。
全盛期には、日本全国に
約二万の末寺をかかえていたといわれる。
 後白河天皇の皇子だった静恵法親王が宮門跡として入寺して以来、明治維新までの37代の門跡のうち、25代が皇室の
出身ということで、高い格式を誇ってきた。
 ただし、室町後期からは苦難の連続だった。かつての壮大な伽藍は応仁の乱により焼亡。洛北の岩倉や市内の烏丸今出川に
移転したものの、いずれの伽藍も火事で失われ、江戸時代の延宝4年(1676年)に、もとの場所にもどって再興され、現在にいたっている。
 今も本山派修験道の総本山として、復活の傾向をみせる修験道の一大拠点となっている。

                                    正木晃氏 知の教科書 密教 (講談社)より抜粋させていただきました。