十津川村に行って来ました!! パートA
1864年に中沼了三先生が京都〜五條〜十津川へと歩いた道・熊野街道を歩きました。
早朝、世界遺産に登録された熊野参詣道の果無集落までマラニックした後、田花館さんの温泉につかりさっぱり!
ゑびす荘さんで皆と合流。そこには6月に隠岐に修学旅行に来た十津川高校の生徒さんも来てくれました。
そしてお礼の挨拶と十津川と隠岐の歴史を調べ発表しますと力強い言葉。
東辻さんご夫妻も一緒に皆で記念撮影。その後、隠岐にも足を運んで戴き隠岐学セミナーでユーモラスいっぱいのお話をして
いただいた、元十津川村教育委員会教育長の勝山毅さんのお宅にお邪魔しました。勝山さんは「十津川街道」で司馬遼太郎さんを案内
された方です。私は緊張して何も話せませんでしたが、佐々木さんが楽しく話しをされ、和やかな雰囲気だったです。
10時20頃と予定より少し遅れて十津川役場に到着。すでに熊野街道を案内していただく松み先生が待っててくれてました。
そしていよいよ今回の旅の大目的の一つ、熊野街道散策。胸がわくわくしましたが・・・
東辻さん御夫妻にはとってもお世話になりました!! 私達は甘えてばかりだったかと。 |
熊野街道を行く。池穴〜 いきなり恐怖の吊橋、ここを渡らないと 先に進めない・・ほんとに恐かった・・ |
松み先生はすいすいと。この吊橋は明治22年の大水害 以降に架けられました。 |
橋を渡って道幅60センチ程の道を登って行きます。 松み先生を先達に東辻先生、十津川高校の生物の先生。 と隠岐の四人での十津川熊野街道を行く! |
ゆるやかな坂道を登った所に茶屋跡がありました。 昔の人はここで一息ついたことかと。 |
松み先生はリュックに鈴をつけていました。ここ熊野街道は 熊が出るそうで熊よけの為。(月の輪熊)あと猪、鹿も・・ |
猪撃ちのハンターもいました。 |
蜜蜂の箱です。いたる所に沢山ありました。十津川村は日本で唯一日本蜜蜂を扱っていると(日本蜜蜂協会と協定を結んでいると) 十津川の蜂蜜はかなり貴重です! |
左に谷を見ながら行くと、広尾谷にかかる吊橋が。 松み先生曰く、吊橋は狭く、高く感じる。おまけに揺れが かなりある。橋の中央にくれば、谷底がはるか下に見えてしまう。 |
十津川で言われている「針金橋」がぴったりかと。松み先生でもこの橋は恐いと・まさかここを渡るのか・渡れないと聞いてほっ。橋を渡ると今は廃村になった、かつての中原集落だと。 中原はかつて平家の人間が落延びた村だとも。 |
吊橋を過ぎ、熊野街道を行きます。道は比較的なだらかで 歩きやすかった。ここ40年ぐらいでかなりの杉を植林したとか・・ |
沢山の古びた巨石がありました。千年以上も前からあった石かと。 この石を横目に、沢山のいにしえ人が通り過ぎたのかな。 |
1331年頃に十津川に逃れた後醍醐天皇の第三皇子の 大塔宮護良親王もこの熊野街道をたどった可能性大だと。 |
所々道を補修しての石垣がありました。 とてもしっかりとした素晴らしい石垣でした。 |
しばらく直進したら道の途中にハネオキノタキがある。 この滝は道上から落下する滝で、雨が降ったときは、 |
滝となって流れただろう。ただ昔の人はこれも自然の一部だと気にもせずに渡ったのかも。旧役場跡に向けてさらにゴー |
鳴尾谷の谷まで下りました。 |
対岸へは杉木で橋が架けられている。 |
鳴尾坂を登って行きます。道の周辺には沢山の杉の村有林が あります。水田や畑、屋敷跡が杉檜の間に散見します。 この小さい集落はかつて「鳴尾」と呼ばれていました。 ここの集落で旅人や中沼了三先生も休んだかもしれませんと・ |
登って行った所が山小屋です。 渡らなかったが吊橋を渡って廃村の中原から下った所が ここで合流します。ここの標高は510mです。 |
池穴を出発して約3千mぐらい来たかと。 |
左から十津川村湯の原が、さらに武蔵も見えました。 |
遥か彼方の山は昨年登った・修験の神聖な山、熊野三山の奥の院 玉置山です。(大峯奥駈参詣道の途中にある行場) 吉野と熊野の二大霊地を結ぶ約170kに及ぶ山岳道です。 |
標高550mの小森峠をなだらかに下って木の本街道との分岐点に着く。左の木の本街道を行けばかつては、 高滝〜玉置山〜和歌山へと延びていたと思う。 |
街道脇旧警察署跡が。標高の高い所に様々な施設が 立てられていた。熊野街道の一角のここが都合がよかったのかと・ |
警察署跡のすぐ上には招魂社跡(しょうこんしゃ)が。遺骨などはなく戦死した人達の魂を石碑などとして祀られていたかと。 |
招魂社跡地にあった石碑です。戊辰戦争で亡くなった方の 石碑だと。松み先生はのざらしに放置されたままの状態は寂しいと・・ |
すぐ近くには郵便局跡も。 |
役場跡。明治22年の大洪水後、一村に統合され、全村民の意思を統一する必要から、位置として村の中央、そして村を南北に縦断する熊野街道の一角、小森に役場が置かれた。 (明治25年〜昭和23年まで) |
役場跡地のすぐそばには、大きな宿跡が・・そしてなんとここに年代物のお宝がざくざくと・・戦前のビール瓶とか、骨董品の壷など。 |
佐々木さんもにっこり。背中の毛利さんも瓶を抱えている。 東辻先生はさらに貴重な・・おっとないしょ・・ |
熊野街道を下って行った所で集落に出てきました。この尾根上に 56年間もの間、役場があったことが不思議に思われます。 |
昭和23年10月から現在の地・小原に十津川役場は移されました。 この橋から下の眺めもかなり高くて足が震えた。 |
役場浦の景観も素晴らしかった。約4時間ちょっとの 熊野街道散策はとっても楽しく貴重な体験でした!! |
松み先生曰く、1864年に中沼了三先生が、十津川村の上平主税氏や吉田正義氏らに案内されて熊野街道を歩きました。
ただ当時48歳の年齢の為、全コースは徒歩ではなく、籠を担がれて通ったのではと、籠が行けない急な所などは歩いたかと。
昔の人は鹿の足のように歩くのが速く、この熊野街道を鹿の足のように歩いていたと。
この熊野街道は昭和30年頃まで使われていた。
戦後まもない
まだまだ、日本が貧しかった頃、谷瀬の家々が、浄財を出し合って架けたこのつり橋、
私達はその自主自立の志と行動に、「十津川」の原点のひとつがあると思います。
私達の学校は、幕末風雲を告げる中で、いのちを与えて頂きました。
十津川村は、発信します。
「今も昔もここは秘境、でも時代はいつもここから変る。」と。
コンビニもない、ゲーセンもない、この地・十津川。しかしここには、今の時代がなくしたものが沢山ある。
みどり、水、どこまでも澄んだ空と空気。
そして人のやさしさも。
そうだ、十津川村へ行こう。 十津川高校のパンフレットから抜粋させていただきました。
昨年に続いての十津川村訪問でした。当初の予定より遅れての到着でしたが温かくお迎えしてただきました、
十津川高校の森田校長先生、東辻先生御夫妻、下野先生、十津川村教育委員会の大野さん、ありがとうございました。
あっという間の時間でしたが楽しい時間でした。(もっとゆっくりお話したかったのですが、あまりのご馳走に、食べるのに
一生懸命で・失礼しました。)また翌日の熊野街道で案内いただきました松み先生。熊野街道散策はとっても楽しくわくわくでした。
中沼先生は勿論ですが、歴史上の人物が歩いたであろう古道、古人の気持ちにほんの少しですが触れる事も出来ました。
またいつか歩いてみたい道ですし、別のルートをもと思っています。
ほんとうに心に残る旅でした。またいつか。