第3回布施の山伏マラニック 情報 @

乳房杉
この付近を岩倉と言いまして、4月23日は「いわくらさんの祭り」です。

いわくら杉 保護の為、鳥居から中には入れません。


布施の山伏マラニックのコース途中に
岩倉神社・通称、乳房杉(ちちすぎ)があります。


神秘的な巨杉を感じて下さい。

※少し詳しく長くなりますが(歴史)よかったら読んでねー 

岩倉について・・ 布施の山伏、竹谷素信先生著から
 布施山(大満寺山)の山頂から北東に広がる斜面から、中腹にある小台地など一帯を「岩倉」という。
岩倉に「乳房杉」と名付けられ特異な大樹があり、天然記念物に指定されている。
この古い大杉を神体として「岩倉さんー神社」と愛称し、毎年四月二十三日に祭りを行っている。春の深山開きの
儀式が今に残ったものであり修験道でも、一般(外来)山伏への開放の日でもあった。
 この地名の岩倉は、初めは磐座で、神の住まう場所、或いは神の御座などの意味を持つ語である。

岩倉神社の創設・・ 布施の山伏、竹谷素信先生著から
 明治二年の廃佛運動の影響で布施の深山にあった山伏道場は姿を消しました。
その後時は流れ深山の道場跡を探しに山伏名をカイジン(快人)と言った・をやって探させた。が登拝を中絶して
から十数年経っていて、寺跡など一変して旧態を止めず、礼拝所とすることも難しい。
丁度その辺に何百年か分らない珍しい型の老樹の大杉を見出し、帰ってその事を報告した。宮守は村役の人達とも
協議の上で、その木を神木と定め、岩倉神社とした。神社登録は(明治四十五年四月二十三日)
この巨木は古代をしのばせ、そのかみこの辺りに謹行した山伏の姿を無言のうちに語るかの様な象徴的な遺物であろう。
寺跡はその後探し出されている。

布施の歴史などに詳しい灘部さんにお聞きしました
 この地帯には明治の末までは岩倉神社は無かった。山神だった。元々(明治の初めまで)は
いわくら・という地名は鷲ヶ峰の南側下の方にあった。その後、有木・原田の者が山に入り作業をしていたが
ある時おのが顔にあたり大怪我をした。明治の初めから遥拝もせずに放ったらかしにしていたからだ・・
住民が鷲ヶ峰の遥拝所から、現岩倉神社の所に移動してほしいと・・
布施の山伏の家系の岡田氏に頼んだが高齢もあり、困難だったが、明治45年に移した。

 更に灘部氏は・この大杉の近くに池が二つあった。・・りゅうぐうかいとか龍神とか灘部氏が言われた様な??
この龍神はすごい意味があるそうです。
かみおろし・神様が天から降りて来て必ず大きな木に宿り、木からすぐに水に入らないといけない。と・・
昔、旧暦の3月23日と9月23日にこの杉の前で作物の祈願祭や穀物奉告祭を行ったのではないか。
また山伏がここで・ごまを炊いたのではないか?とも・・
(現在は新暦の4月23日に岩倉さんの祭りが行われています)

★平凡社出版 別冊太陽・山の宗教の神々の気配するところ・・・藤田庄市氏の文を抜粋させていただきました。
  山に神が降りるのは、疑う余地がない。山に分け入れば、たちどころにうちふるえるような念にとらわれる。
 原始の森がそれだ。そこに在わす(おわす)大木はこの身を粛然とさせる。
 樹木そのものが、神である。鬱蒼(うっそう)として霊気の放たれる森を進めば、
 聖なる山の多くで巨石と出会う事になるだろう。
 はるか昔より、我々は岩を神の君臨する場と実感してきた。
 そうした・いわくら・岩倉・磐座に影向(ようごう)(神仏が一瞬、姿を現す)石の名を持つ物が多いのも、
 仏の姿をそこに認めた者が連綿と続いたがゆえである。