布施・造林の先駆者

始祖の業績(造林始祖四氏)
 藤野 孫一   ・・(1701年〜1784年)屋号は清水
 
船田兵右衛門 ・・(1711年〜1763年)庄屋職の家に生まれた。屋号は船田。船乗業に就いていたが、後船頭を雇って
                         業を執らせ、自らは孫一の意気に同調し、他に先んじて杉の植栽につとめる。
                         配下に対しての啓蒙にも力をつくした。後に庄屋職を長田新六に譲った。
 

 佐原 長兵衛
 ・・(生年不詳〜1802年)屋号大北。孫一らと協力して杉の植栽に従事し、村民にも督励を加えた。
                          1769年に長田新六の後を受けて庄屋職についた。
 
 長田 新六  ・・(1702年〜1784年)  船田・佐原に続いて孫一に賛同し、植林に従事し、模範を示した。1764年に船田兵衛門の
                         後を受けて庄屋職についたが、間もなく其の職を佐原長兵衛に譲った。


明治29年造林始祖・四氏の業績を称えて南谷林道入り口(布施竹原)に顕彰碑が建立されました。
昨年のマラニックスタート地点にあります。

南谷林道の道沿いに先人の志を称えて
造林始祖の木が植えられています。

布施の南谷林道〜約5k地点の道路端しにあります。

★布施村の林業 竹谷素信氏著  布施村刊 昭和38年から抜粋しました・・・

 布施村の造林業は1719年に藤野孫一の主唱に応じて、船田兵衛門、長田新六、佐原長兵衛の協力を得て私有林として
創始されたと言われている。
藤野孫一が青年となる頃、周吉郡湊村(現隠岐の島町湊)の西明寺の僧について学問修行をしたが、通学の途にある元屋村の
老医師・原玄琢とは交情が厚かった。玄琢はすでに杉の植栽については好結果を確信していたが、老齢のため、自らは実施が
出来なかった。たまたま孫一が布施の貧困を憂い、飢餓の後に続く悲惨を救う方策をたずねて、
玄琢は確信を以って杉・檜の植栽を奨めた(1716年)。勿論これは緊急即効の対策ではないが、
百年の大計として、
貧困の除去を示唆したものである。
当時孫一は弱冠にも達しない夢多い青年であった。

 そしてこの事業を協力に推進するために同志を求めこれに応じた、船田・佐原・長田の協賛を得ることが出来た。(1719年)
ついで
孫一は(1737年頃か・孫一37歳)伊勢参宮を兼ねて吉野林業地を視察し、吉野の林業を見て驚嘆し、品種改良の要を感じた。
よって吉野の杉種子を買って帰り、これを育苗し、吉野系の杉を植栽した。(自然生の地種子も吉野系であると云われている。)

 四氏の辛苦も村民の貧苦もしばらくは続いたがその後、樹齢も50年に達しようとしたので、これを伐採し、販売して
巨利を博する成果を挙げた。これを見聞した村民は競って植林礼賛に転向し、これに従事するものが続出し、
林業立村の基礎を強固にした。

★藤野孫一の末裔の藤野庄衛門の遺言書・・これは現布施役場に保管されていると聞きます。
(各箇所省略あり)
 隠岐植杉の原因を聞くに布施村は田地なし、稲作不成にて、村民貧窮に成行き米を求めるにも元屋中村辺へ行きて
 実に困難なことである。先祖孫一と云う者ありて、元屋村三水(さみず)医師・原玄琢と云う人にある時、曰く
 布施村は田地なし稲作無き所ゆえ、元来貧村に成行き、村民其渡世に難渋なること見に忍びず・・
 如何にして貧民を富貴に成行・・医師玄琢は曰く、杉を野山へ多数植え広めたならば3,40年を経たならば其大木となり
 其の時伐りとって売り場へ持ち出したならば金銭となり村民渡世の助になると・・
 更に玄琢は、隠岐国は実に狭き島国なれとも他国は広く高大なるゆえ、売場に困る事は無きだと・・
 孫一は大いに感心して直ちに布施村に帰り、親族なるものと熟一申合せ、杉苗を育てた。
 その後時は達、杉の木金銭となり、渡世の助け不少大に祝び其功徳村内は勿論、他村迄に及ぼす様になり、
 後世の人益々尽かす・・
後世の子孫、原玄琢・藤野孫一の厚恩を忘失する事なかれ。

★布施村誌から・・

 布施村林業史年表から
・1770年 ・・松江大橋用材を調達する。  ・昭和3年 ・・出雲大社大鳥居材調達。  ・

★竹谷素信氏著  布施の山伏から・・・

原 玄琢・・布施の藤野孫一(造林始祖)に杉など植栽の必要性を伝授したスーパーマン!

 玄琢(げんたく)は寛永八年(1631)に元屋村下元屋に生まれた。屋号を三水(さみず)と言い、庄屋職の家柄で、所有の土地は
田畑・林野・海岸にいたる付近一帯を占め、地名に三水というのがあり、村内での名家であった。
医師を志して、京都に遊学したと伝えられているが、詳細は分らない。京都方面に滞在中に、吉野・大峯・伊勢・熊野方面を
巡ったという。彼の家筋は元来山伏であって、医療については自負していたし、山伏の本場に関しては慣れをもっていたのであろう。
吉野巡遊の際に植林の知識を見聞した。帰国後に藤野孫一に望みを託し、造林を実践させている。
明治29年布施の南谷林道入り口に建てられた石碑にも「元屋村医師原玄琢・・」と冒頭に刻まれている。
また元屋村入り口に玄琢の碑が建っており、『隠岐造林の・・』の功績を称えている。

元屋にある原玄琢の碑です

原玄琢碑・横からです