大満寺山 (だいまんじさん) A
だいまん(大満)とは誰が命名したのか・・
★竹谷素信氏著 布施の山伏より・・
今の位置に大満寺が建つ前に、布施山一帯(現在・大満寺山と呼ばれている一帯)は修験道の修行場で山伏が
往来しており、堂を建て彼らの崇敬する蔵王菩薩を奉じていたらしい。その寺は、民衆のためのものではなかったから、
寺号も宗派も周知さらなかったものである。
今この霊山の北面(詳しくは北東面、山頂からみれば鬼門方に当たる)に堂宇のあった痕跡がある。
これが初の大満寺であって、山伏の寺跡である。
大満(だいまん又はタマ)という語は修験道の霊所の中の重要な部位に当たる所を意味し、布施山の霊所(寺)も、
山伏達が吉野で用いられたものを移して命名したものと推定してはどうだろうか??
修験道の聖地・奈良県吉野にある、金峯山中にまつられた仏尊や霊所は下記の関係に立っているという。
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この竹谷氏の書いた吉野の配置に付きまして、 興味があり二年前に吉野にお邪魔しまして、 お聞きしました。 山伏の総本山とも言えます・・ 金峯山修験本宗・総本山金峯山寺の 田中利典氏にこの図を見ていただきました。 田中氏はこの配置であっていると言われました・・ ただ左上の大満は天満ではないかと言われました。 その後、御祭神が後醍醐天皇でもあります 吉水神社に足を運びました。 吉水神社は元吉水院と称し今から凡そ千三百年前に 山伏の祖といわれます役行者によって建てられたと・・ そして吉野修験宗の僧坊であった。 明治維新の神仏分離の際に神社と改めました。 隠岐から逃れた後醍醐天皇がこの吉水院に南朝の 行宮を置かれました。 二年前にこの吉水神社でも、そこにおられた方に (お名前は聞きませんでした・)この図を見ていただき・・ そして・かなり衝撃を受けました。 この大満という場所は、ここ吉水神社だと。 確かに大満というのはあると・・ |
★2006年 2月23日 吉野の吉水神社の佐藤宮司様にお聞きしました・・(そのまま載せさせていただきます)
今一度、この配置についてと、大満という言葉について、吉水神社とのつながりに付きましてお聞きしました。
ご多忙の中、佐藤宮司様から直ぐにお返事いただきました。
『吉野山の蔵王堂の側にある「大威徳天満宮」は、村上天皇(父は醍醐天皇)の御代の天徳三年(960年代かと)九月五日
鎮座です。修験者の日蔵上人が笙の岩屋で修行中、気を失っていると、夢に菅原道真が現われ、蔵王堂のそばに、祀る様に
お告げがあり、日本で最古の天満宮が創建されました。古来、「神仏習合」の時代より、山伏の修行の本拠地である
大峰山地の聖地一番として、必ず護摩焚きをして入山した。現在は「天満宮」と言っているが、本来は、「大威徳天満宮」と
こしょうしていて、多くの修験者は【大天満】とも言っていた。「金峯山の口之宮」であり、山伏にとって
蔵王堂〜大天満〜勝手〜水分〜金峯へと山中に押し入ったものである。修験宗の寺そのものが明治政府の神仏分離から
廃寺になる寺が沢山あったが。大威徳天満宮は吉水神社の管理として摂社ではなく、本宮として、今も重要文化財として
今に伝える。この大天満に関わる文献は無い。と』
![]() 吉水神社 |
![]() 吉水神社(遠くに見えるのは金峯山寺蔵王堂) |
![]() 金峯山寺蔵王堂 |
★たけさんの勝手に解釈・・
多くの山伏が言っていたという【大天満】・・天という言葉は大事な言葉だと思います。(天からの恵み雨など)
があえて、天をとれば・大満に・・ここから来たと推測しては乱暴であろうか・・
※五来 重氏著 山の宗教=修験道〔淡交社〕より抜粋・・
日蔵(道賢)上人が941年に笙の窟に籠り修行をした。修験道ではしばしば洞窟を陰陽(いんよう)信仰でまつるが、
聖天の窟(大峯山中の洞窟)も密教の陰陽神であり、やはり一番奥に男根形の陽石があった。
【洞窟信仰はその形状から陰陽合体の性信仰と豊穣信仰に結びつくことが出来る。】
笙の窟のすぐ隣り合った左手に【鷲の窟】がある。鷲の窟は、洞窟の上に鷲のそっくりの巌の突角が造化の妙を見せている。
こんな壮大なものを造った山神があったとすれば・・・山伏はそれがあったと信ずるのだが・・
その神のエネルギーはとてつもなく巨大なものであろう。
★たけさん・・
笙の窟のすぐ隣にある洞窟・鷲が窟・・隠岐の布施にある今は鷲ガ峰と呼ばれている巌もかつては
鷲ガ窟と呼ばれていました。そして一昨年その布施の鷲ガ峰の向こう側に自分自身足を踏み入れました。
本当にびっくりしましたと同時に神聖な気持になりました。
私の背丈よりも大きな、男根形の巨石が山中にただずんでいました。また近くにはこれも不思議です、トカゲ岩がそびえています。
※竹谷素信氏著 布施の山伏から・・
陰陽思想(信仰)の代表的なものは月山の大満を通り、東普陀落に至る途にある巨石拝所である。
10m余りの巨大な男根形の立石があり、その下に女陰形の胎内くぐりが出来ている。
ここは修験道の陰陽思想と、原始宗教の性神信仰とが混ざり合って設定された拝所である。
★たけさん・・
隠岐の西郷湾の入り口の金峯山は、当時の隠岐の大将だった人が(佐々木氏?)吉野の金峯山から
譲り受けたと1667年の隠州視聴合記にはあります。また同じく、隠岐の大将が格別に大満寺山と大峯山を信心していたとあります。
隠岐には大峰山という山も2〜3はあるかと思います。今風車のある大峯山も【いわくら】といってかなりの巨石があります。
勿論修験道の聖地の吉野〜和歌山県の熊野までの修行の山々を総称して大峯山と呼んでいます。
★かなり長くなりました・・・なんか書きたい事がいっぱいで、まとまりがなくなってしまいました。
今後・吉野と隠岐の山伏との関係・・何か手掛かりが分かればと思います。
最期に竹谷氏の布施の山伏の冒頭にあります言葉より・・・
元来、山伏・・修験道では、やたらにものを書いて後代に遺すという方式はとらないで、必要な事は口伝によるとされていた。
教義・礼式・行事についても殆どその様(口伝)であってし、又後代のものからみて、重大事件に活躍したと思われる時にも、
その終始は書き止められてはいない。それらの経過を知るには、只僅かに、他の諸記録の部分や伝承を縫合して様相を
窺い知るだけである。従ってその時々の山伏の実体は歳月と共に(口伝も)消えうせて、歴史として残らないのみならず、
伝説さえも忘れられていくのだろう。
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